ひたちなか市の地名


長砂(ながすな)

射爆場跡地から東海村にかけての海岸は砂地が続き、そこに砂防林として、江戸時代に植林が行われました。砂地が延々と続いている地形から名付けられたと考えられます。

足崎(たらさき)

中世には多良崎と書き、太郎崎を意味するといわれます。真崎浦に突き出した一番大きな岬(崎)を「多良崎」と書いて「太郎崎」と呼び、後に「足崎」と書くようになったといわれます。

高野(こうや)

古くは「荒野」「広野」とも書かれ、草木の生い茂った広い野原の意味で、地形から名付けられた地名です。近世には藩主や重臣が鷹狩りを行った所のようです。

馬渡(まわたり)

古老の伝説に、昔このあたりは川が二又になっていて、八幡太郎義家が奥州征伐のとき通りかかり、たくさんの軍勢が川を馬で渡ったので「馬渡」と呼ぶようになったといわれます。

東石川(ひがしいしかわ)

天保13年(1842)の検地の際、外野村、大島村、外石川村が合併して東石川村と改称されました。当時、「水戸城東外石川云々」と称されていたことから、東の字をあてたという説があります。

中根(なかね)

鎌倉時代中期の文暦2年(1235)、鹿島神宮文書の中に「中根郷」の名が見られるので、古くから呼ばれていたことが分かります。中根には、中城とか城の内と呼ばれる城跡の地名があります。

金上(かねあげ)

戦国時代末期の金上弾正の居城の跡が、今も残っています。伝説に、金上弾正は税金の取り立て役で、それが金上の地名になったということです。

三反田(みたんだ)

大日本地名辞書によれば、「美田」「三田」「御田」などとあり、いずれも肥沃な水田を意味します。那珂川のへりで美しい田がたくさんあるので「みただ」と呼ばれたのが始まりのようです。

勝倉(かつくら)

地形に由来していると考えられます。現在の勝倉小学校の敷地になっている、富士山と呼ばれるところが、南北朝時代の築城とみられる勝倉城の跡です。

佐和(さわ)

古くは沢と書いたが、後に佐和と書くようになりました。沢はわき水を意味し、「ふるわた堂」の泉から水がわき出していたことに由来するようです。

田彦(たびこ)

猿田彦の神と関係があるという説と、タピコが「旅子」で旅まわりの少年俳優を意味し、中世にはこのあたりに旅子がいたので、この名が起こったといわれています。

稲田(いなだ)

稲田は大川の上流に位置し、早くから水田が開かれていて美田が広がっていました。よく実る美田の意味から名付けられた地名と思われます。

高場(たかば)

タカバは鷹場で、鷹狩りをする御鷹野の地の意味です。古くは鷹場または鷹羽と書き、上と下に分かれていましたが、天保年中に合村しました。

市毛(いちげ)

市毛は街道筋に発展したムラで、鎌倉時代、周辺で「市」が開かれたことから市下になったといわれています。中世に常陸大豫一族の市毛氏の居館があった所です。

津田(つだ)

鎌倉時代の史料に「津田十二丁」と記されています。大きな谷津田があったから、あるいは山ばかりで、葛かずらのツタから津田になったという伝説があります。

武田(たけだ)

平安時代の初期に書かれた「和名類聚紗」に、那珂郡武田郷と記されています。武田は、文献に最も早くあらわれた地名です。

堀口(ほりぐち)

早戸川の水を堀口まで引き、那珂川北岸を開田しようとしたムナセ堀が、堀口側から掘り進められたことに由来するといい伝えられています。

枝川(えだかわ)

水府志料に「弘安2年(1279)早戸の小流此村に至り、那珂川に落、枝の乙とし。よって村に名付けしなるべし」とあります。

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